教材としての天満神社
自由研究では、興味のあるトピックについて深く掘り下げ、自ら考え、学びを追求することができます。野外活動では、自然や社会との関わりを通じて、実践的な経験を積むことができます。そして、総合的学習では、複数の学問領域を統合し、問題解決能力や総合的な見識を養うことができます。
これらの活動は、学びを豊かにし、子供たちが自ら考え、行動する力を育むのに役立ちます。
いなみ野台地の地質・地形の特徴
天満神社の境内地やその周辺には、昔からの地形・地層がそのまま残されています。いなみ野台地を構成する堆積した粘土層(削られて丸くなったこぶし大の石が混じった赤土粘土)を観察することができます。
また、天満神社は、天満大池のほとり、加古段丘の端に位置しています。そのため、天満神社からは、加古段丘と南側の日岡段丘とに挟まれた低地(広大な水田)を見渡せ、いなみ野台地の地形の特徴をつかむことができます。
ため池について
兵庫県下で最も古いため池(675年造)とされる岡の大池(現在の天満大池の原形)を鎮め、満水を願うために、天満神社は建立されました。大昔の人々は、地形の特徴を最大限活かして、この地にため池を作りました。「いなみ野台地の地質・地形の特徴」に記した加古段丘と日岡段丘と間に堤防を築くことで、土木作業の負担を抑えつつ、これらの段丘に挟まれた低地へ供給できる水を確保しました。これが天満大池です。天満神社から、その地形的特徴をはっきりと見て取ることができます。昔の人がどのようにため池を作ったのか、想像してみましょう。
秋祭りでは、日岡段丘の端に位置する六分一の御旅所まで、神輿を渡御します。つまり、加古段丘端に位置する天満神社と日岡段丘端に位置する御旅所との間を、ご祭神がお渡りになられます。
むかしの人流・物流の経路
ご祭神の菅原道真公は、901年、京都から九州大宰府まで、いわれなき罪で左遷されるとき、どのような経路を通ったのでしょうか?淀川の水運から瀬戸内海へ入り、途中途中で上陸しながらの旅路であったと言われています。明石の二見で上陸され、しばし休息された「仮寝の丘」の言い伝えが残っています。
天満神社の本殿は元禄14年(1701)に再建され、その時の記録(三間社仕様帳目録)が残っています。大阪の宮大工との間で交わされた契約書の中で、木材を明石の二見まで海運することが記されています。
平安時代・江戸時代ともに、瀬戸内海をつかった水運が重要だったことがわかります。現在の経路と比べてみましょう。
豊臣秀吉による播磨平定の足跡
天満神社社殿の傍らの大杉に住む大蛇が姿をみせたことで、秀吉による社殿の打ち壊しから免れたという言い伝えがあります。現在、神木として大杉の切株をお祀りしています。播磨平定のため、なぜ、寺社を打ち壊しする必要があったのか、歴史ある社殿を見ながら考えてみましょう。
世界大戦について考えよう
国安天満神社には、天満地区の332柱の戦没者を祀る靖国社に加えて、戦時中の氏子地域の人々の思いが偲ばれる奉納プロペラや記念碑などがあります。これらを見学しながら、戦時中、そして、戦後の人々がどのような気持ちであったのか、思いを馳せてみましょう。
なお、毎年8月15日の早朝、天満神社内の靖国社にて天満地区の戦没者慰霊祭を行っています。
算額
天満神社には、明治9年に奉納された算額が掲げられています。数学の図形問題の設題およびその解答の成果を公に発表するためでもあったと言われています。紹介ページに詳細を記載していますので、挑戦してみてはいかがでしょうか。
自然観察
天満神社境内の樹木は、最低限の剪定にとどめており、自然な樹姿をしています。ヤマモモ、モチノキ、クヌギ、ヒノキなど大樹の自然な枝ぶりをご覧ください。セミや蝶など季節ごとに様々な昆虫とも出会えます。運が良ければ、コウノトリをはじめとする野鳥や小鳥を観察できるかもしれません。なお、境内で、おとなしいヘビの姿やその抜け殻を見かけることがあります。見かけたときは、そっとしておいてあげてください。社殿を守ってくれています。